Yokoso! Japan - 通訳ガイド的日本再発見

海外から日本に来る外国人観光客の方々に、通訳ガイドの視点から、日本の良さを伝えたい…日頃見慣れた風景もあらためて見れば新鮮に映る、そんな視点で日本を再発見し、通訳ガイドの方もすぐ活用できるように、英語で紹介します。

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ホイサムジャイ

Author:ホイサムジャイ
放浪癖あり(笑)。好きなTV番組は「モヤモヤさまぁ~ず」「ちい散歩」「タモリ倶楽部」「ぶらり途中下車の旅」などなど。。。良く言えば「自由人」、悪く言えば「鉄砲玉」(←出たら戻って来んのかい!)

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え~、本日からまた「通常編(?)」に戻ります m(_ _)m

信号待ちをしていて、赤から青に変わった途端、流れてきた曲。。。
「♪通りゃんせ~通りゃんせ~、こ~こはど~この細道じゃ~、
天神さまの細道じゃ~・・・」

・・・そうだ!天神様に行こうっ!(←あいかわらず唐突やねっ・笑)

というわけで、やってきたのは「湯島天神」さん。

yushima_tenjin01.jpg

もともとは、ココ、「湯島神社」さんなんですが、菅原道真さんが祀られているので、「天神」さんと呼ばれるんですね~。

おおぉっ!由緒も書かれていますね^^

yushima_tenjin02.jpg

・・・読みにくいっス(T-T)
仕方ないので、ちょっと書き下ろしてみますね。

湯島天満宮は 雄略天皇の勅命により、御宇(ぎょう)二年(458)創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明三年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること厚く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷の内五石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。

その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。  明治五年十月には郷社に列し、ついで同十八年八月府社に昇格した。

明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当たった。
元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝暦元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。
明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。

・・・と書いてあります^^

なるほど。では中へと進みましょう。

yushima_tenjin03.jpg

本堂までの参道は思ったより短いんですね~。。。

yushima_tenjin04.jpg

あ、確かに。平成7年の再建ですので、けっこうピカピカですっ^^

では、お参りする間に、いつものやつを。
本日はもちろん「菅原道真」さんで、いきましょう!

Sugawara no Michizane (845 - March 26, 903), also known as Kan Shoujou (菅丞相), was a scholar, poet, and politician of the Heian Period of Japan. He is regarded as an excellent poet, particularly in Chinese poetry.

He was born into a family of letters. Beginning with his grandfather, his family served the court, teaching history in the national school for future bureaucrats. His father began a private school in his mansion and taught students who prepared for the entrance examination to the national school or who had ambitions to be officers of the court.

Sugawara passed the examination, and entered Daigaku, as the national academy was called in those days. After graduation he began his career in the court as a scholar. He was also appointed to a position as a government official. Sometimes, as a result of his Chinese language skill he was appointed to diplomatic offices, to host foreign embassies. Besides his offices at the court he ran the school his father founded. He was also appointed Monjo Hakushi, the highest professorial office at Daigaku. This office was considered to be the highest honor a historian could achieve.

At one point, Sugawara lost the favor of the court and was appointed to be governor of a province. Before that, he had been appointed to such offices but it had been only nominally. He lost his office as professor and must have moved to the local province he was appointed to. But when a political conflict arose between Emperor Uda and Fujiwara no Mototsune, he sent his opinion to Mototsune, and gained his favor. Though his term as governor was not over, he was called back to Kyoto.

He was appointed ambassador to China in the 890s, but instead came out in support of abolition of the imperial embassies to China in 894, theoretically in consideration for the decline of the Tang Dynasty. A potential ulterior motive may have lain in Michizane's almost complete ignorance of spoken Chinese; most Japanese at the time only read Chinese, and knew little to nothing about the spoken language. Michizane, as the nominated ambassador to China, would have been presented with a potential loss of face had he been forced to depend on an interpreter.

Sugawara rose to high positions of the imperial court under the grace of Emperor Uda, but in 901 he fell into a trap of his rival Fujiwara no Tokihira and was demoted to a minor official of Dazaifu, in Kyuushuu's Chikuzen Province. After his lonely death, plague and drought spread and sons of Emperor Daigo died in succession. The Imperial Palace's Great Audience Hall (shishinden) was struck repeatedly by lightning, and the city experienced weeks of rainstorms and floods. Attributing this to the angry spirit of the exiled Sugawara, the imperial court built a Shinto shrine called Kitano Tenmangu in Kyoto, and dedicated it to him. They posthumously restored his title and office, and struck from the record any mention of his exile. Sugawara was deified as Tenjin-sama, or kami of scholarship. Today many Shinto shrines in Japan are dedicated to him.

Emperor Uda stopped the practice of sending ambassadors to China. The emperor's decision-making was informed by what he understood as persuasive counsel from Sugawara Michizane.

・・・という感じでしょうか。

え、今日は展開が早い?・・・いえいえ、実はこの「菅原道真」さんの死後の事件と、そしてなぜ彼が「学問の神様」としてあがめられるようになったのかを、もう少し具体的にお話してみたいと思います。
ちなみにココから先は、「歴史の記録」としては断片的にしか残っていないので・・・その辺はご了承下さいませ m(_ _)m

ではまず、「怨霊騒動」から w(゜0゜)w

「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」(『拾遺和歌集』収録)の句でも知られる彼の「孤独死」ですが・・・まず、そもそもこの道真さん、我々が思うほど「聖職者」ではなかったようなんです。。。

記録によれば、奥さんがいながら、お妾さんを持ち、また当時遊女(あそびめ)で賑わった京都の大山崎にも度々来ていたそうです。。。また、大阪市東淀川区にある「淡路」「菅原」の地名は、道真さんが大宰府に左遷される際、当時淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したというエピソードに由来しているそうで・・・結構「自由奔放で、天神というより、天然」な方だったんですね~。親近感がわきましたっ(笑)

そんなわけで、道真さんは自分を陥れた人間を「怨み」ます。。。(怖・・・)

道真さんの死後、比叡山延暦寺の第13代座主「法性房尊意(ほっしょうぼうそんい)」さんの目の前に道真さんの霊が現れ、「今から私を左遷に追いやった者達へ復讐のために祟りに行きますが、もしそれらの者達があなたに助けを求めてきても応じないでください。」と告げます。

困った尊意さんは、道真さんの気持ちを鎮めるためにザクロの実を食べさせますが、道真さんは食べたザクロを炎にして吐きだし、自分の怒りをあらわにしたそうです。(←ザクロが嫌いだったのかな~・・・って、そこがポイントかいっ!・笑)

そしてここから菅原道真さんの復讐劇が始まります。。。
(♪チャ~チャ~チャ~ン、チャ~チャ~チャ~ン・・・火曜サスペンス風。。。って、コレいつかの回のブログ記事でも使ったっすね^^)

事件①
道真さんを左遷させる陰謀に加わった中納言「藤原定国」さんが40歳の若さで急死。(906年)

事件②
道真さんの左遷が決定した際、醍醐天皇さんに直訴するため裸足で駆けつけた宇多上皇さんの行く手を阻んだ「藤原菅根」さんが雷に打たれて死亡。(908年)

事件③
道真さんを左遷に追いやった張本人、藤原時平さんの両耳から蛇に化けた道真さんが現れ、その蛇を退散させるために時平さんは祈祷師に色々と祈祷させましたが、全く効果は無いどころか、逆に蛇となった道真さんに「控えよ!!」と一喝されて祈祷師はスゴスゴと退散してしまい、とうとう時平さんは狂死。(909年)

事件④
貴族達の集団職務放棄の中心人物だった「源光(みなもとのひかる)」さんが、狩りの最中に底なし沼に乗っていた馬ごとハマって行方不明。(913年)

事件⑤
醍醐天皇の皇子で皇太子でもあった「保明(やすあきら)親王」さんが21歳の若さで急死。(923年)

事件⑥
保明親王さんの死後、醍醐天皇さんの皇太子となった「慶頼王(よしよりおう)」ちゃんが5歳で死亡。(925年)

事件⑦
この一連の事件を境に「醍醐天皇」さんは体調を崩し天皇の位をわずか8歳の皇太子「寛明(ひろあきら)親王」さんに譲り「朱雀天皇」さんとして即位しますが、この1週間後、醍醐天皇さんは、わずか46年の生涯に幕を閉じてしまいます。(930年)

こうして、左遷事件に関わった殆どの人間が、不振死を迎えます。
コワイですね~(T-T)

その後月日は流れ、道真さんの怨霊騒ぎから12年が経過しようとしたある日、西京七条二坊(平安京の西端)に住む貧しい家の娘「多治比文子(たじひのあやこ)」さんの枕元に道真さんの霊が現れ…

  「私が昔生きていた頃、よく右近馬場という所に遊びに行きました。そこに行けば私の胸の内に
  燃えさかる恨みの炎は安らぎます。早く右近馬場に祠(ほこら)を建てて私を祀ってください。」

…とのお告げを残します。(←冷静に考えるとムチャ振りですよね。。。)

そ・・・そう言われてもねぇ。。。お金がね~・・・で、とりあえず自分の家の庭の片隅に祠を建てて、道真さんを祀ることにします。(942年)

そしてその5年後、今度は近江の国の神社の息子「太郎丸」さんにも文子さんと同様のお告げがあり(←ココでもまたムチャ振りっ!)、それを知って驚いた太郎丸さんの親父さんは、右近馬場にある「朝日寺」の住職さんに事情を告げて相談し、多治比家の庭にあった祠を右近馬場に移し、道真さんを祀る社(やしろ)を建てます。(947年)

この話を知った当時の右大臣「藤原師輔(忠平さんの息子)」さんはその社を増築し(952年)、これが現在の「北野天満宮」になったそうです・・・つまり、天満宮は当初、道真さんの怨念を鎮めるために建てられたものだったんですね~^^

ではなぜ、道真さんが「学問の神様」になったのか?

時は流れ、986年に、「慶滋保胤(よししげのやすたね)」さんが、北野天満宮に捧げる祈願文の中で「天神を以て文道の祖、詩境の主」と語り、またその後の1012年、当時の文章博士「大江匡衡(おおえのまさひら)」さんが、同じく祈願文の中で「文章の大祖、風月の本主」と言った事から、この後、道真さんは「学問の神様」として祀られるようになったんだそうです。

そういえば、大願成就の絵馬がいっぱいありますね~(驚)

yushima_tenjin05.jpg

・・・でも、おいおい、「○○大学と△△大学か、または××大学に合格しますように」とか、複数のお願いを書いている人がけっこういますね~。。。

お願いは1つにしておかないと、道真さんが怒って、祟られますよ~^^

・・・ほら、怨念が、そこにおんねん(笑)
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